エコール・デ・ルーヴル(ルーブル美術学院)教授/美術評論家 エリック・モンサンジョン
丹羽名甫氏の作品は、現実や物事の表面を描かんとするよりもむしろ、内面にある真実を捉えようとしています。彼女が創り出すのは、精神的で神聖な心象風景です。紺碧の海辺に果てしなく広がる黄金の砂浜で描かれる「情景」は、無限・すなわち自然に魅せられた心情を表しているのです。
たとえば、『金閣寺の池の辺りで』では神聖な場所に向けた視線を彼女は直接的に描きはしません。まず目に入るのは池畔の水面に映し出された寺院。丹羽氏の作品の前では自ずと足が止まり、瞑想のひと時を過ごさずにはいられないのです。ここでは「観ること」の本質が二重の意味を持ってきます——まずは神聖なる寺院を崇める精神、そして刹那の美を享受するという純粋なる美意識。空(くう)を切るようなひと捌(さば)きや水しぶき。海や川を思わせる所作が織りなす丹羽名甫氏の世界観。
これらの情景は、精巧な金細工さながらです。無限に広がる火の海の如く、はたまた大地に捉えられた炎の如く。この超越した無垢さは我々に、限りない視野の広がりとスピリチュアルな啓示を与えます。表現を簡素化することによって作者は、観る者に「視覚的俳句」とでもいうべき無限世界をイメージさせることができるのです。
彼女の作品の真髄は美しい自然です。しばしばインスピレーションを受けている夜空の三日月にしてもそうですが、丹羽氏はその一瞬一瞬を色あせない永遠(とわ)のものにしようとしている、または季節というものを、時間を凝縮させてひとつの作品の中に織り込もうとしているかのように思われます。時間とは、時として短く、また時として永遠です。落ち葉を散らす秋風の肌触り。海原と人の心に波打つさざめきの出会い。これらをいかにして伝えられるでしょうか?
我々にはもはや見えなくなってしまったかもしれない何か、感知することができない何かを観せる——それはつまり宇宙と生命への新たなビジョンを確立すること——そんな奇跡を丹羽名甫氏は起こしたのです。
エコール・デ・ルーヴル(ルーブル美術学院)教授/美術評論家
エリック・モンサンジョン
丹羽名甫氏の作品は、現実や物事の表面を描かんとするよりもむしろ、内面にある真実を捉えようとしています。彼女が創り出すのは、精神的で神聖な心象風景です。紺碧の海辺に果てしなく広がる黄金の砂浜で描かれる「情景」は、無限・すなわち自然に魅せられた心情を表しているのです。
たとえば、『金閣寺の池の辺りで』では神聖な場所に向けた視線を彼女は直接的に描きはしません。まず目に入るのは池畔の水面に映し出された寺院。丹羽氏の作品の前では自ずと足が止まり、瞑想のひと時を過ごさずにはいられないのです。ここでは「観ること」の本質が二重の意味を持ってきます——まずは神聖なる寺院を崇める精神、そして刹那の美を享受するという純粋なる美意識。空(くう)を切るようなひと捌(さば)きや水しぶき。海や川を思わせる所作が織りなす丹羽名甫氏の世界観。
これらの情景は、精巧な金細工さながらです。無限に広がる火の海の如く、はたまた大地に捉えられた炎の如く。この超越した無垢さは我々に、限りない視野の広がりとスピリチュアルな啓示を与えます。表現を簡素化することによって作者は、観る者に「視覚的俳句」とでもいうべき無限世界をイメージさせることができるのです。
彼女の作品の真髄は美しい自然です。しばしばインスピレーションを受けている夜空の三日月にしてもそうですが、丹羽氏はその一瞬一瞬を色あせない永遠(とわ)のものにしようとしている、または季節というものを、時間を凝縮させてひとつの作品の中に織り込もうとしているかのように思われます。時間とは、時として短く、また時として永遠です。落ち葉を散らす秋風の肌触り。海原と人の心に波打つさざめきの出会い。これらをいかにして伝えられるでしょうか?
我々にはもはや見えなくなってしまったかもしれない何か、感知することができない何かを観せる——それはつまり宇宙と生命への新たなビジョンを確立すること——そんな奇跡を丹羽名甫氏は起こしたのです。